十把一絡げは無意味。

長崎、佐世保での事件。

犠牲となったお子さんに心からの哀悼の意を捧げると共に、

ご家族、周囲の方々に謹んでお悔やみを申し上げたいと思います。

 

さて、今回の事件にかかわって、

長崎の「いのちの教育」が繰り返し話題となっています。

 

10年前の小学生による殺傷事件以後、

長崎では県を挙げて「いのちの教育」や

地域での「みまもり活動」に尽力されてきたとのこと。

これはもちろん価値のあることで、

それらの取り組みによって心が耕されたり、

救われたりした子供も多いのではないかと思います。

 

しかし、教育委員も、報道も、今回の事件をもって、

これらの取り組みの是非を問うような言い方をしています。

どちらかというと、否定的な見方を示しています。

 

私は、この価値ある活動が、今回の事件一つで

否定されるような状況にあることに危惧を感じます。

 

すべての子供に「いのちの尊さ」を教える教育課程。

極論すると「人を殺してはいけない」という『常識』。

 

長崎以外でも「道徳」の授業や、その他の教育活動を通して、

これは繰り返し子供たちに提示されている価値観です。

学校だけではなく、家庭でのご指導など様々な場面で

子供たちはこの価値観にふれているはずです。

 

だから、ほとんどの子供、子供時代を経て成長した大人は、

どんなに怒りや恨みの感情を抱いても、

実際に他者を殺めようとはしないのです。

 

その、絶対的な事実を無視して、

ある一つの出来事を採り上げて教育活動全般の成否を問う。

 

そのような流れを、我々教育関係者は認めてはいけないのではないでしょうか。

 

教育は万能ではありません。

 

学級にいる40人の子供に同じように授業をして、

40人に等しく知識や技能、思考・判断・表現の力を培うことはできません。

一斉授業は、あくまでも「平均的」な「素地」を育むための時間なのではないでしょうか。

本当は、一斉授業の前後に、子供一人ひとりの個性に合わせた

個別の指導・支援が必要なのだと思います。

 

今回の佐世保での事件から教育の現場が知見を得ようとするならば、

一斉指導のあり方よりも、彼女の(環境、生育歴を含む)個性に寄り添う

個別の指導・支援がどのように行われてきたか、

彼女へのアプローチ、家庭へのアプローチをどうすべきだったか

という事実についての省察からスタートするべきだと思うのです。

 

小学生の頃からの彼女の行動。

母親との死別と父親の再婚。

高校進学と同時の一人暮らし。

高校への登校が3日程度。

 

これらの事実について、

各段階で小・中・高等学校はどのような支援を行ってきたのか。

学校は、教育委員会は、児童相談所は、どのように連携・支援してきたのか。

小学校から中学校、中学校から高校への連絡はいかに行われていたのか。

 

そして、学校から家庭への働き掛けはどのように行われたか。

 

彼女を取り巻いてきたこれらの事実を一つひとつ紐解いていくことでしか、

彼女の悩み、苦しみを解き明かすことはできないのではないでしょうか。

 

そして、そこから「個に寄り添う」支援・指導のあり方を模索するべきではないでしょうか。

 

「きょういく」「こそだて」は、均質、均一な取り組みではありません。

 

子供(だけではありませんが)のトラブル、問題行動は、

「今の子供は」「○○地域の子供は」「○学年の子供たちは」などと

括って考えてはいけないと思います。

 

トラブル、問題行動に対応するならば、該当の子供個人について。

トラブル、問題行動を予防するなら、集団に属する一人ひとりの子について。

 

十把一絡げの見方や対応を全とすることなく、

個々に応じた指導や支援、「きょういく」「こそだて」を考える必要があると思うのです。

 

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これは、現在進行形の「教育改革」にもいえることです。

一人ひとりに応じた「きょういく」「こそだて」の研修会

https://educhatforall.wordpress.com/2014/07/24/edu-chat%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%9B%9E%E7%A0%94%E4%BF%AE%EF%BC%A0%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%80%80%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85/

 

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